「主イエスが神の右におられる」  06.06.25
                       使徒言行録7:54〜60

 キリスト教最初の殉教者となったステファノは、その死の直前、
天を見つめ、神さまの右におられる主イエスを見つめていました。
 平安に包まれながら語った最後の言葉は「主イエスよ、私の霊を
お受け下さい」という真に深い信頼の言葉と、「主よ、この罪を彼らに
負わせないで下さい」という、敵を愛するほどの深い愛に満ちた
言葉でした。
 信頼と愛に満ち、真に健やかな人としてあり続ける姿が、彼には
ありました。
 その時のステファノの周囲には、彼に対する怒り、敵意、傲慢、
暴力があふれていました。それに対してステファノが怒りや暴力を
もって対抗したとしてもおかしくはありませんでしたが、そうはなりません。
 主イエスが神の右におられるのを見ていたからです。
 主イエスが神の右におられるのは、神さまからすべての権威を託されて、
主イエスがこの世の一切を支配しておられるということです。
 そのことを本当に見ることができた時に、どんなに醜い暴力的な力が
自分の周囲にあろうとも、それが世を支配しているのではないことに
気づかされます。
 どんなに嵐が吹き荒れているように見えたとしても、動揺と不安に
押しつぶされそうになったとしても、真に世を支配しているのは主イエスです。
 神の右におられる主イエスをはっきりと見る信仰の目は、恐れや争いに
心奪われるのではなく、神さまへの信頼と人を愛する心を回復させてくれます。
 人が真に人として歩んでいくために、その目がなくてはなりません。
 神の右におられる主イエスは、神に私たちをとりなしてくださる方です。
 主イエスは、十字架の愛で私たちを包み込み、罪から解き放ち、ご自分の
愛の支配の中にしっかりと置いてくださる方です。

 その主イエスが、とりなして下さるのですから、神さまと
私たちを引き離すものはありません(ローマ8:34〜39)。
 神の右におられる主イエスを見上げ、信じる私たちは、
主の支配への信頼と安心の中で、十字架の愛に包まれて
いることを喜びながら進めるのです。